2012年7月17日火曜日

「いじめ」はなくならないのか?

最近、「いじめ」報道を目にする機会が多くなってきた。

文部科学省によると、いじめの定義は「子どもが一定の人間関係のある者から、心理的・物理的攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」で、「いじめか否かの判断は、いじめられた子どもの立場に立って行うよう徹底させる」としている。

たしかに「いじめ」はよくない。
これだけの議論で、いいのだろうか?

思春期前の若年者の心は、不安定である。
自分を認めてくれない(と思っている)大人には、気持ちを打ち明けなかったり
意味もなく反抗したり
そして、他者よりも優位に立つことで、自分の存在価値を認めようとしたり

彼らに「いじめはよくない」「優しくしろ」と投げかけたところで伝わるだろうか?
もし、それが伝わったように感じたならば、それは、若者から刺々しさを奪ったか、若者たちがわかったふりをしているかどちらかではないだろうか?
当時の自分には、きっと伝わらなかっただろう・・・

しかし、今の自分の存在にとってはこの刺々しい時代が必要であった。
誰も「うまく」大人になっていく訳ではない。
大人の望んでいるように、人生は右肩上がりばかりじゃないんだ。
失敗したり、挫折を感じたり、後戻りをしたり、ときどき成功を体験し幸福感を感じた。
大きくしゃがまないと、高く跳ぶことができない。

そうした上で考える、彼らに与えるべきは「正当な競争の場」ではないだろうか。
一定のルールの下に競争の場を与え、(勝ち負けにかかわらず)自分の存在を認めることができれば 、自分のアイデンティティを感じ、相手の気持ちをわかることができるのではないだろうか。
例えば、スポーツにおいても共通のルールがあればこそ、危険なプレーを防ぎ、ゲームが終われば「ノーサイド」とお互いに健闘しあうことができる。

大人に必要な役割は、彼らと同じ方向を向き、彼らに「正当な競争の場を与えること」
その上で、彼らに伝えなければならない・・・

「いじめ」は、よくない。

皆、そうやって大人になっていくと信じている。

1 件のコメント:

  1. 一番に感じるのは大人と子供の差が縮まってきていること。昔の大人は皆、立派で子供はもっと無邪気でした。ひとつには大人の幼稚化、DINKSが叫ばれた頃からか、大人が無邪気に子供っぽく振舞うことや、子供の延長のようなライフスタイルが受入れられる風潮が芽生え、それを勘違いして無邪気さが人格の一面だけでなく、全てに無邪気で幼稚な大人が溢れている。関心事は子供と変わらず、一部のゲーム(機)や携帯端末に代表されるような様々な文明機器の扱いを子供と競っている。このような場では順応性の高い子供に軍配が上がり、権威の喪失を含めた逆転現象を生み、大人を超越すると勘違いした子供がたくさん溢れている。勘違いした子供はこころの成長を止め、そのまま大人になって新たな子育てが2巡目に突入している。子を育てると言うことは、狭義のる養育だけでなく、子のこころを育む事である。

    「一歩先を見て一方白を歩く」保育理念の基本だそうだが、まさにその通り、子よりも高い位置で将来を俯瞰し、豊富な経験で予測し、安全とまたは正しいと判断した道へ子を先に歩かせる。多少の障害があっても子は自分で道を切り開いたと自覚し、達成感はより高い目標への糧になる。こういった勘違いこそがこころを育むと言うことではないだろうか?子供の目線で物事を見ること、子供の感受性を持ち続けることは重要なことだが、いつもいつも子供と同じ目線ではいけないのである。

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   ここ19年間の実績をまとめました。      死亡診断書枚数   在宅患者さん人数   訪問診療・往診のべ回数 2005年    12           66          492 2006年    17           70          553 2007年...